【蛇の道は蛇】

第三話「蛇神様と温泉宿」

二本の縄をねじり上げ作られた一本の太い大縄が掛けられた木製の門を潜り抜けると、
目の前には白い湯煙があちこちから立ち上る山間の牧歌的な村里の風景が広がっていた。
「もう一人のボク、ちょっと早いけど今日はここで休んでいこうよ」
山道を徒歩と野宿を繰り返しゆったりとしたペースで旅をしていた
ボクらにとってそれは数日振りの人里だった。
「ああ、そうだな」
まだ日は高かったが急ぐ予定も無い気ままな旅、
ボクらは今日の宿をこの村に決めると少し早めの休憩を取ることにした。

★ ★ ★

オレ達が村に入ると直ぐに物陰から蠢く複数の視線を感じた。
「大きいねぇ〜」
それはお世辞にも上手く隠れているとは言い辛い。
「半分だけどヘビぃ〜」
時折、大きな物音をたてる小さな子供達の話し声の様だった。

――ああ、またか……

【蛇】なんて、この山村なら珍しくも無いだろうに、それが【半蛇】というだけでこれだ。
人型に似ているからこそ人を呼び寄せ、完全な人型と違うからこそ人の目を引く。
この『畏怖』であれ『畏敬』であったとしても『恐れ』という本質は変わらない。

ふと物陰に隠れていた一人の子供と目が合った、どうせ直ぐに逃げ出すものだと思っていた。

――だが今回は違っていた。

オレに睨まれたというのに逃げ出す所か、こっちへ向かってどんどん近づいてくる。
「「「わぁー!大蛇様だぁー!!」」」
子供達の賑やかな歓声に、嫌な予感がする……
「え?」
その妙な期待感に輝く真っ直ぐな瞳は、前にも見た事があったからだ。

ボクらが唖然としている目の前で、あれよあれよという内に……
「蛇さま!」「ヘビさまぁ〜♪」「へーびサーマー!」
もう一人のボクは村の子供達に目一杯じゃれ付かれていた。
「おい、勝手に乗るな!触るなッ!!」
もう一人のボクは長い下半身をうねらせ
自分にまとわり付く子供達を必死に追い払おうとしていたが、
それすらも今の子供達には楽しい遊びの一環の様だった。
とても楽しそうな子供達の笑い声と
実に不釣合いなもう一人のボクの悲鳴にも似た怒声が辺りに響いていた。
ボクとクリボーはどうしたものかと
縺れ合う彼と子供達を見守るほかなかったけど。

★ ★ ★

もう一人のボクがやっと子供達全員を手や尻尾で取り押さえた頃……
「皆、蛇様を困らせてはいけませんよ」
一人の女性が助け舟の様に、はしゃぐ子供達を優しい口調でいさめてくれた。
「「「はーい」」」
その鶴の一声で子供達は少しだけ
ボクらの話を聞いてくれそうな位には大人しくなってくれた。
「ようこそ、いらっしゃいました。大蛇様」
彼女は柔和な微笑で旅人であるボクらを快く迎えてくれた。
「『大蛇様』?」
先ほどの子供達も口にしていた【蛇様】という、
この独特な言い回しは何なのだろう?
「はい、この村では昔から【蛇様】を『神』として祭っています」
確かに言われてみれば村の建物のあちこちに
【蛇】をモチーフにしたらしき、様々な装飾や図案が見て取れた。
「それもあり、今日では【蛇】にまつわる方々を村全体でもてなしているのです」
どうやら、この村にとってもう一人のボクはとても『大切なお客様』という事らしい。
「あ、だから子供達があんなに【蛇】が好きなんですね」
もう一人のボクにじゃれつく子供達があんなに嬉しそうだったのはそういう事だったんだ。
「はい、突然の事、驚かせてしまいましたね」
彼女は丁寧に謝罪をすると申し訳なく思うほどに深々と頭を下げてくれた。
「い、いえ!ちょっと驚いただけですから!」
そんな彼女のお詫びにも、もう一人のボクは……
「オレは、いい気はしてないぜ」
少しの主張と棘の在る一言を口にすると両腕を組み直し、また黙り込んでしまっていたが。
「私の一族は代々この村で湯守と湯屋を営んでおります。
お詫びとはいきませんが、もし宿がご入用ならお色をつけさせて頂きます」
彼の少々露骨過ぎる不服の態度にも、
たおやかな笑顔で応えてくれる彼女の気遣いが今のボクには本当に有難かった。
「ぜひ、お願いします!」
それは一宿の宿を探していたボクらにとっては願ってもない渡し舟。
「さあ、こちらへ……」
道案内をしてくれる彼女の手招きに導かれ、
ボクらは村の中心部から少し離れた林道へ入っていった。

★ ★ ★

しばらく、林の中を進むと……
「昔々、この村にそれは大きな天災があったそうです」
徐に道案内をしていた女性が、多分昔話の最初の件を話し始めてくれた。
「開湯伝説か」
「かいとう伝説?」
もう一人のボクは聞きなれない用語で、
彼女がこれから語ろうとするお話の内容を察していた。
「はい、この村の『湯』にまつわる古い言い伝えです」
そう応えると彼女は「よくご存知で」と
特に話の流れを止めることも無く昔話を続けてくれた。
「天災により家屋は崩れ、田畑は荒れ、怪我や心労から病に伏せる者。
村は命の息吹を失いかけていました…」
それは過去に起きた災害の悲痛な惨状を今に伝える為の昔話だった。

そんなある日、古くからこの林一帯を根城としていた白い大蛇が村人達の前に姿を現しました。
疲弊しきった人々はとうとう訪れた自分達の最後を覚悟しました。
けれど、白い大蛇は一向に人々を襲いません。
困惑する村人達を背に白い大蛇は人々を先導する様に根城である林の方へと招きました。
林を抜けると目の前にそれは大きな樹木が倒れていました。
その木の根元、うろの中へ吸い込まれる様に白蛇の姿は消えていきました。
そこは今まで白い大蛇が住んでいたねぐらだったのでしょう。
木のうろから立ち上る白い煙に人々は引き寄せられると、
うろの中から白濁とした温が滾々と湧き出していたそうです。

「その湯は人々を癒し、明日への希望を与えてくれましたとさ……」
穏やかな語り口調に合わせて閉められた『湯の始まりの物語』
「村を助けてくれた、白い大蛇かぁ〜」
ユーギはこの話の顛末に嬉しそうに微笑むと、
この話の【英雄】でもある白い大蛇に思いを馳せ、瞳を輝かせていた。
「大方、湯煙を【白蛇】に見立てただけだろ」
オレには地方に良くある誇張された開湯話にしか聞こえなかったが。
「そうですね、昔からこの辺りは『大地』と『温』への信仰がありますから」
山間部の山や大地への信仰は、けして珍しいものではない。
「ですが、なら…あの白蛇は『湯の神様』だったのかもしれませんね」
女は薄く微笑むと「その方が素敵ですね」と今度は自分の想いを言葉にしていた。
「『神様』…か」
言葉は口にすれば力になる、ならここの『神』は随分と慕われているのだろう。
それは通りすがりの旅人であるオレ達に、その存在を示す程に。

――だから『言葉』は容易に口にするものではない……

「オレは尻尾取ったぞ!」
「私はとぐろ巻かれたー!」
聞き覚えのある声は数人。
「いいなぁ〜ぼくも触りたかったなぁ〜」
聞き覚えの無い声も数人。
少し離れた後方からオレの耳へと容易に聞こえてくる。
村を通り抜ける間に村中の子供達が噂を聞きつけ集まってきたのだろう。
「皆、キミと遊びたいんだよ」
そうオレに話しかけてくるユーギは何故かこの状況を嬉しそうにしていた。
「そうか?」
むしろ『オレで遊びたい』だけな気がするが……
「少しだけ遊んであげたら?」
ユーギはあの子供達と同じ様に、
期待に満ちた瞳でオレに『無茶』を求めていた。

★ ★ ★

「…オレは――」
もう一人のボクはそれこそ渋い顔付きで断ろうとしたのだろうけど……
「ボクはあの子達の気持ち、わかるからさ」
ボクには子供達の『興奮』と『ときめき』が、
少し前の自分と重なって見えてしまうから、なんだか無下には出来なかった。
彼は一度だけ深く溜息を付くと徐に後ろを振り返った。
「隠れてないで出て来いよ」
もう一人のボクの低く良く通る声が、風にざわめく林の中に響いた。
その呼び声に応える様に物陰からわらわらと小さな子供達が姿を見せた。
それは最初に村で彼にじゃれ付いた子供達の、ゆうに倍の人数が集まっていた。
そんな子供の群れに、もう一人のボクはゆっくりと近づいていった。
「へび様、みんな食べちゃうの?」
中でもことさら幼い子が恐る恐る
もう一人のボクのマントの裾を小さな手で握っていた。
「大人しければ、見逃してやる」
口にする言葉数こそ少なかったが、
それでも彼は少し身を屈めると目線を落としてあげていた。
「わかった、まとめて相手してやる」
もう一人のボクが少し諦めた様に肩を落とすと、
同時に咲いた子供達の嬉しそうな笑顔が実に印象的だった。
「蛇様ー!なにして、遊ぶのー?」
まとわり付く子供達を手際良くさばき、人数を確認し終えると
「ん…【かくれんぼ】」
もう一人のボクはサクサクと『遊び』の算段をとっていた。
「私、鬼がいいー!!」
「ダメだ、鬼はオレがやる」
勿論、横道にそれてしまいそうな事態は
未然に阻止するが如く、実に抜かり無い的確さで。
「いいか、オレが百数えたら全員狩ってやるから、捕まったら大人しく家に帰れよ」
それは、まるで引率の『先生』と小さな『生徒』達の様だった。
「「「はーい!!」」」
傍から見ていると実に『微笑ましい情景』の筈なのにな。
「隠れるのは、建物の外だけだぜ」
もう一人のボクは最後にゲームの上での
禁止事項を付け加える事も忘れてなかったけど。
「一、二、三――」
心持ちゆっくりと数を数え始めたもう一人のボクを残し、
ボクは彼女に引き続き道案内を頼むと先に宿へと向かうことにした。
歩き始めてしばらくすると、背後から嬉しそうな子供達の叫び声が次々と聞こえてきた。
本気を出した彼との『かくれんぼ』だ、きっと思ったよりも早く終わりそうだ。

――流石はもう一人のボクだなぁ〜

★ ★ ★

「お二人は仲がよろしいのですね」
宿へと向かう道すがら、彼女は優しくボクへ話し掛けてくれた。
「そうだと、いいんですけど…」
それはきっと嬉しい『褒め言葉』の筈なのに、
ボクにはその言葉に釣り合えている自信が無かった。
思えば彼がボクらと旅をしてくれている事だって、ボクにとっては十分なお伽話だ。
「もう一人のボクはいつもこういう人里は面倒だっていうけど」
思えば最初に出会った時から、ボクが強引に彼を連れ回しているだけかもしれない。
「ボクはそういう『面倒な事』も含めて、この旅で一緒にやって欲しいなって…」
それでも我が侭かもしれないけど、
ボクはこの旅を通してもう一人のボクの事が知りたいんだ。
「『もう一人のボク』ですか…」
少しだけ躊躇いがちに、彼女はボクが口にした『愛称』を気に掛けていた。
「やっぱり、変ですよね?」
確かに『同名』であるだけでも物珍しいのに、その上『もう一人のボク』だもんな……
改めて考えてみると、なかなか恥ずかしい『あだ名』を付けてしまったのかもしれないな。
「いえ…」
彼女はたおやかな微笑のみで応えると、
余計な身の上話をしてまったボクを気遣ってくれていた。
「『蛇は、最初は臆病者、次は空威張り、最後は勇敢な戦士となる』」

――だから……

「この辺りで昔から『蛇』を表した言葉ですよ」
彼女が語った『言葉』は、ボクには何だか唐突に思えてしまった。
「【蛇】は元々とても臆病な生き物なんです」
きっと、これはボクに必要な話だから彼女は教えてくれているのだろう。
「人や争いを避けるのは、きっとあの方の『本能』なのでしょうね」
確かにもう一人のボクは強く、誇り高い、優れた【魔物】だ。
だけどその実、とても慎重で物静かで、
穏やかな側面もある『もう一人のボク』
「そっか……」
ボクが良かれとした事は、彼を無理に自分に合わせようとした事なのかもしれない。

――キミの事が知りたいと思っているのに、結局いつもボクの都合ばかりじゃないか。

そんな、今更でもある自己嫌悪に落ち込みかけていると……
「ですから」
「え?」
だから、彼女が最後に付け加えた。
「たとえ『名』を借りていたとしても、怒らないであげて下さいね」
「名前を借りる…?」
『助言』の意味が直ぐに分かるほど、ボクは察しが良くなかった。
「さあ、宿に着きましたよ」
きっと時間にしたら大したことの無い距離だろう、
だけどボクは此処へ来た意味が少し分かった出来事だった。

――これも白蛇の神様の御利益かも知れないな……

しばらくして、もう一人のボクが宿の部屋へと戻ってきた。
「貸し、だからな」
開口一言、もう一人のボクは予想通りの不貞腐れ顔だった。
「あはは!うん!!」
ボクは彼に悪い事をしたと思う反面、
だけどいつもと違うもう一人のボクが見られた嬉しさもあったりした。

今日はいつもより宿代、うんと奮発したから少しは機嫌直してくれるかな?

★ ★ ★

山の日も沈み、早めの夕食を終えたボクらは、この宿の名物でもある露天風呂へと向かった。
宿の人に教えられた所へ行くと、そこには広々とした岩肌の露天風呂と
少し離れた所に備え付けられた脱衣所があった。
旅を続けていると宿でもなければ温かい湯にゆっくり浸かる事など滅多に無かった。
脱衣所へ向かうとクリボー以外、ボクらは各々服を脱ぎ始めたけど……
「もう一人のボク、アクセサリー付けたまま入るの?」
ボクはてっきり外し忘れたものだと思い、声をかけてみたが……
「ん?」
もう一人のボクは特に気に留めることも無く、問題なさげに平然としていた。
「『温泉』は普通の水と違うから金属は変色しちゃうって、前にじーちゃんが言ってたよ」
ボクとしてはもう一人のボクがいつも身に付けている、
あの惚れ惚れとする豪奢な装飾品がダメになってしまうのはなんだか忍びなかった。
「ああ、これは腐食を防ぐ加工がしてあるからな」
だが彼からしてみれば、どうやらボクの心配の方が杞憂だったらしい。
「それにオレ達【蛇】は体温を調節するのが苦手なんだ」
上半身こそボクと同じ人型である彼だが、生態としては【蛇】である面の方が多いらしい。
「これがないと茹っちまうぜ」
もうひとりのボクが言うと『冗談』なのか『本気』なのか、わからなくなってしまいそうだ。
だけど、それだけ彼にとって特別な物なのだろう。
「へぇ〜…そんなにスゴイ物だったんだ」
ボクは衣服と共に外されたアクセサリーの中でも、
一際目立つ【黄金の額宛】を手に取ってみた。
いつも、もう一人のボクが付けていた黄金の額宛。
それがこんな風に彼を守っていたんだな。

――ちょっとだけ、付けてみたいな……

「お前は付けない方がいいぜ」
そんなボクの心を見透かした様に、もう一人のボクはしっかりと釘を刺していた。
「道具に頼ると本来持っている自然な力を弱める」
けど、それがもう一人のボクの優しさである事が、ボクにも少し分かってきた。
「結構、便利だと思ったんだけどな〜」
ボクは咄嗟に茶化した素振りで、本当の所は誤魔化してしまったけど。
「便利も度が過ぎると『毒』だぜ」
こんな会話がもう一人のボクと出来る様になってきて、
少しずつだけど彼と打ち解けられた気がして……
それがなんだか、今のボクにはとても嬉しかった。

★ ★ ★

「わぁー!大きな露天風呂だね!」
白い湯煙に霞む広々とした岩風呂が、ボクらの目の前に広がっていた。
「足元、気をつけろよ」
濡れた岩場を安定感無く歩くボクは、
這って進むもう一人のボクからしたら危なっかしく見えるのだろう。
「クリボー、身体洗ってあげるよ」
温泉に入って疲れを癒す前に、まずは軽く旅の汗や泥を落とさないとね。
「クリクリー♪」
クリボーは嬉しそうに湯桶に身体を浸すと、
毛むくじゃらだった体毛は水に濡れて一回りほど小さく縮んでしまっていた。
「あ、もう一人のボクも後で洗ってあげるよ」
ボクは隣で同じく身体を洗っている、もう一人のボクへと声を掛けた。
「別にオレは一人で出来るぜ」
もう一人のボクはそう断ると、
長い下半身を手元までくねらせ器用にも尻尾の先まで丁寧に洗っていた。

「でも、背中とか洗い辛いだろ?」
ユーギはお節介な笑顔で「遠慮しないでよ」とオレの方へと近づいてきた。
「いや、オレは…―」
今までの経験から一度断った所で、
こいつが簡単に諦めないのは分かってはいたが……
「えっ?キミって『男』なのに無いんだね」
そして、いつも唐突に持ち前の好奇心に駆られる所も、この旅で大分慣れてきた。
「ん?何がだ」
ユーギはジッと凝視する様にオレの腰周りを見ているが、
オレの半身が【蛇】である事など見慣れている筈だ。
「あ、なにっていうか…『ナニ』というか…」
あいつは自分から言い出した事に、今更ながらに何やら紅くなってもじもじと恥らっていた。

――ああ、そういう意味か……

「ああ、そうやって出しっ放しの生き物の方が珍しいんだぜ」
オレはむしろ【性器】を隠すこと無く露出している方が生物として変わっている事を示唆してやったが。
「へぇ〜」
ユーギは興味深そうにオレの性器が収納されている腰の鱗辺りをマジマジと観察していたが。
正直、悪気は無いとはいえ見世物の様に見られるのは、余りいい気がしないぜ。

――少しお灸を据えてやるか……

ユーギの純粋な好奇心から来る無邪気さは、
美徳でもあるが度が過ぎるとどうなるか教えてみるか。
「オレをその気にさせれば、見せてやれるぜ」
オレとしては、かなり分かり易い『挑発』のつもりだったが……
「その気って?」
ユーギは案の定まだ『言葉の意味』を分かっていないのだろう。
「フッ…『色々』とあるだろ?」
オレはほんの悪戯程度に、温かな湯で濡れたユーギの太ももに、
そっと滑らせる程度に指先を這わせてみた。
「―あっ……」
いくら距離感に鈍いユーギでも、これには流石に驚いた様だった。
あいつの迂闊さを分からせる為にした事の筈なのに、
こうも素直に反応されるとつい、もっとからかって見たくなる。
「どうした?」
『答え』を聞かなくても十分な程に、
ユーギは湯の上せではなく羞恥だけで耳まで真っ赤にしていた。
「…え、遠慮して、おきます……」
ここまであいつに言わせる事が出来たのだ『目的』としてはもう十二分だろう。
「…賢明だな」
オレはわざとゆっくとユーギの膝から手を離すと、
いい加減冷めてしまった身体を温めに湯に身を沈めた。
ユーギは何故か少し遅れてクリボーと共に、
オレの直ぐ近くでそっぽを向きながら湯に浸かっていたが。

――まあ、ユーギには良い薬だろう。

★ ★ ★

――さっきは思いっきり、もう一人のボクにからかわれてしまった……

確かにボクもニブかったけど、もう一人ボクもちょっとやり過ぎだと思うな。
いきなり、あんな風にされたら……
ビックリするに決まってるだろ……
なんだか今日一日のもう一人のボクへの借りを倍返しで仕返しをされた気分だ。
ボクはまだ紅潮しているだろう自分の顔を熱い湯で叩きつけると、
気持ちを切り替える様に満天の星空を見上げた。
夜空に溶け込む淡い月の光を見ていると、ぼんやりと今日一日の事を振り返った。

――そう、ボクが思い出したのは……

「あのさ……」
ボクはまだ湯に浸かっているもう一人のボクへと声を掛けた。

――『たとえ『名』を借りていたとしても…』

ボクが『キミに聞きたい事』は山ほどあった。
だけど、それ以上に『キミに聞けない事』も沢山あった。
「ううん、何でもないよ…」
それは単純にボクに『勇気』が無いからもある。
でも、それ以上に彼を困らせたくは無かった。
「…聞かないのか?」
だから、キミのその一言は……
「キミの…『名前』……」
『キミを知りたい』という想いが、ボクの『本心』という名の『欲』を燻らせる。
聞きたい、知りたくない訳が無い。

――『二度は言わないぜ』

「キミは一度しか言いたくないんだろ、だったら無理には聞かないよ」
だけど、キミがボクに信じて欲しい『嘘』なら、
今はまだ言いたくない『本当』は聞かないでおこう。
ボクがキミを知りたいと想うのは
『キミの事をもっと好きになりたいから』
ただそれだけ、なのだから。
「もし話したくなったら、ボクは何度でも聞くからさ」
だったらボクはキミを信じて、キミからの『二度目』を待つだけだ。
「『何度も』は聞かれたくないぜ…」
普段は素っ気無く感じる彼の正論が、
なんとなく今は不思議と気持ちを軽くしてくれる。
「あはは!そうだね…」
だってこんな無遠慮なボクには、
少しぶっきらぼうなキミの優しさ位が今は丁度良いって思えるよ。

――ほんの少しの静寂、別に嫌な訳じゃない……

ただユーギが喋らないのは、ほんの少しつまらないなと思う様にオレが変わった位だ。
「ボク、もう上がるよ」
だが沈黙に耐え兼ねたのは、どうやらオレよりもユーギの方だった。
「キミものぼせない様にね」
あいつは一言だけオレを気遣うと、一人脱衣所の方へと向かっていった。
オレはただ何気なく遠ざかるユーギの後姿を見ながら
『ああ、美味そうだな…』と思った。
それも恐ろしい事にごく自然にだ。

オレはあいつを『ユーギ』を気に入っている。
あいつの『長所』も『短所』ですら、
最近は面倒だが面白いとさえ思い始めている。
少なくともたった一度の『食事』の為に
『ユーギと居る楽しみ』を捨てたいとは思わない。

――その筈、なのにな……

オレはまだ湯の中をプカプカと、呑気に浮かぶクリボーを見てみたが
『食べられる』とは思うが、特に『食べたい』とは思わなかった。
「のぼせた……かな」
むしろ、今はそうあって欲しいとさえ思う。

――念の為、寝る前に腹ごなしするか。

火照った身体と脳裏を過ぎる『本能』を冷ます様に吹く夜風が
今はただ優しく心地良かった。


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無料配布で作った同人誌【蛇の道は蛇】第三話のWEB版になります。

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